ケイショウリャク

ディスるのディスはディスカッションのディス

13(サーティーン)(2020年8月期・全4話)

 

 

 


 校庭の草を刈っている最中、指を切ってしまった。軍手に血が滲む。
「大丈夫ですか?」
 見上げてみれば、紺色のセーラー服を身に纏った少女が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ちょっと待ってて。」
 彼女はスクールバッグから絆創膏を1枚取り出す。そしてしゃがんだと思ったら、僕の手から軍手を剥がし、その代わり血の滲む親指に絆創膏を貼り付けた。
 優しく微笑む彼女の髪の毛が太陽の光に反射して輝く。綺麗だと純粋に思った。まるで天使のようだった。
「ユリア!」
 男子中学生の、まだ声変わりしきっていない、喉に引っかかる声。
 彼女は声のしたほうへ顔を向け「今行く!」と返事をした。
「お大事に。さようなら。」
 彼女はそう言って立ち上がり、詰襟姿の少年の元へ駆けていった。
 お礼も何も言えず、僕はその場から立ち上がるだけで、遠くなっていく彼女の後ろ姿を見つめるしかできなかった。
 初めて人に心配された瞬間で、初めて人の優しさに触れた瞬間だった。
 心が温かいもので包み込まれる感覚。自然と笑みが溢れる。
 これが“幸せ”というものなのか。
 僕は一生幸せにならないと思っていた。父親は僕を殴るし、母親は僕に無関心だから。だけど、僕の幸せは彼女にあった。彼女が僕を幸せにしてくれるのだと直感した。
 彼女は天使ではない。―――女神だ。
 僕だけの女神なのだ。


 女神の名前は相川百合亜であるとすぐに知った。
 百合亜はその大人びた美しい見た目から、よくない噂をされることが多いようだった。援助交際をしているだとか、教員と付き合っているだとか………。もちろんどれも嘘で、前者は話にもならないが、後者ははっきりと否定できる。なぜなら、教員と付き合っているのは百合亜ではなく、百合亜の母親だからだ。けれど僕にとってそんなことはどうでもよくて。
 僕が一番腹が立っていることは、百合亜を貶める根も葉もない噂を流しているのが、百合亜の親友である松岡ミサだということだ。親友だと近付いて、その裏で百合亜を嘲っているのだ。松岡ミサが女神を騙す悪魔に見えた。悪魔がどうしてそのようなことをするのか。日置渉にその原因があった。
 日置渉は百合亜の幼馴染みだ。僕と百合亜が初めて出会ったあの時、百合亜を呼んだ少年がまさに彼だった。二人は仲睦まじく、周りに隠れて日記を交換し合ったりもしていた。その親密な様子に、松岡ミサは嫉妬した。彼女は日置渉に好意を寄せているのだ。二人は、僕から言わせれば友達以上恋人未満という関係だったが、松岡ミサには恋人同士にしか見えなかったのだろう。だから、日置渉が百合亜を嫌うよう、百合亜の悪い噂を立てていた。けれど松岡ミサの望み通りにはならなかった。日置渉は噂を全く信じず、寧ろ百合亜を気遣ったり、より親密な仲になっていった。それに苛立った松岡ミサは更に酷い噂を吹聴するようになり、日置渉もまた百合亜に心配りをする。―――悪循環だった。
 僕は百合亜を取り巻く環境を知り、酷いショックを受けた。優しい女神を助けてくれる優しい人間が一人もいないのだ。百合亜にとってそのことはとてもつらいことだろう。けれどもう大丈夫だ。僕が百合亜を―――女神を救う優しい人間になるのだ。彼女が僕を救ってくれたように。
 そしてその日は訪れた。


 今朝から女神はずっと何か思い詰めたような表情をしていた。俯き加減で歩く彼女の姿は弱々しく、僕はすぐに駆け寄ってその肩を抱き締めたかったが、日置渉が彼女に声を掛けたので見守るだけに留まった。
 放課後になっても、女神は肩を落としたままだった。もしかしたらと思った。
 夕方になり、仕事を終えた僕は急いで車をある場所まで走らせた。その場所の近くにある土手で、車から降りる。少し歩いた先に、土手の石段に腰を下ろす女神の姿があった。彼女はぼーっと遠くを見つめている。その見つめる先には、彼女の担任が住むアパートがある。僕の予想は当たった。
 女神は母親と担任の関係を認めることができず、ずっと思い悩んでいた。誰にも相談できず、だからといって母親本人に問い詰めることもできない。そしてその苦悩をとうとう抱えきれなくなり、担任へぶつけることにした。けれどいざ目前にすると、その決心が揺らいでしまった。そうして彼女はただアパートを見つめるだけの時間を過ごしていた。
 女神の力になりたい。独りで担任のところへ行けないのなら、僕も一緒に行ってあげる。彼女の悩みを聞いてあげたい。少しでも彼女の心を軽くしてあげたい。
 不意に、女神が振り向いた。僕と彼女の視線がぶつかる。僕の想いが彼女に届いたのだと思った。けれど、違った。彼女はすぐに立ち上がり、身構えるように、持っていたバッグを握り締めた。
 僕は何か言わなければと口を開き一歩足を出した瞬間だった。百合亜はそれに合わせて一歩後退った。彼女の瞳は不安と戸惑いで揺れていた。
 もしかして僕が誰なのかわからない………?
 そんなわけがない。あの時、確かに彼女は僕を見て優しく微笑んでくれた。その後も、何度も挨拶を交わしたじゃないか。なのに、彼女は僕が誰かわからない。
 頭の中が真っ白になった。気付くと僕は女神を無理矢理車に押し込めて連れ去っていた。


 これは誘拐じゃない。女神をつらい世界から救い出すために必要な行為だ。
 学校にも家にも居場所がない女神に、僕は唯一の居場所を与えた。僕の傍にいれば、つらいことも苦しいこともない。僕が彼女を幸せにする。だからこれは女神にとっても幸せなことなのだ。―――何度も自分にそう言い聞かせた。その度に女神は蔑んだ瞳で僕を見た。まるで僕の幻想を見透かすように。けれど、何度も言い聞かせる内、本当に“そう”なのだと思うようになった。
 彼女のために。僕の女神のために。


 女神はとうとう僕をわかってくれなかった。
 何度も何度も彼女を求めたが、彼女は何度も何度も拒んだ。
 僕は独りで苦しみながら死ぬのか。
 それでも僕の心の中には彼女しかいなくて。
 どうしてこんな結末を迎えてしまったのだろう。
 ただ僕は女神の幸せを願っただけなのに。
 ………幸せ? 幸せとは、一体何なのだろう。
 彼女に出会うまで、僕は幸せを知らなかった。
 女神と過ごした13年間はかけがえのない時間だった。確かに僕は幸せだった。
 けれど女神は………、百合亜は、僕といるとき、いつも瞳を伏せて口を閉ざしていた。時々見せる笑顔も、かつて見た美しさの影もなく、暗く、感情がなかった。果たしてそれが幸せだったと言えるのだろうか。
 13年前の百合亜は明るく前向きで、常に正しくあろうとしていた。僕はそんな彼女が眩しく愛おしかった。羨ましかった。妬ましかった。
 彼女の幸せを願っているなんて嘘だ。
 あの蔑んだ瞳を思い出す。見透かしていたのは幻想ではなく、“嘘”だった。
 百合亜はもう既に幸せだった。僕の入る余地もなく。それを僕は壊した。僕自身の幸せのために。
 あぁそれももうお終いだ。
 百合亜にとって僕は最後まで忌むべき相手でしかなかった。けれど、百合亜、きみと過ごせた13年間、僕は本当に幸せだった。
「………百合亜……」
 だから、最期に願う。
 僕の女神の幸せを。